コラム

資料の保存と修復「リーフキャスティングによる紙資料の修復と保存について」  坂本 勇

1.文書の大量修復技法を必要とする時代

世界のアーカイブズや図書館など現代の資料保存機関には、数千年の人類の歴史を記録した有機物の資料が膨大に集積され、長年の間に劣化や損傷がひどくなった大量のオリジナル資料群を抱えることとなった。損傷したまま「安置しておく」だけならそのままでも良いが、検索し、利用し、後世に継承していくためには、扱えなくなっている資料群を修復していく必要がある。初期の修理(レストレーション)技術は、小規模で職人的なレベルであった。しかし、1964年のイタリア・フィレンツェの大洪水で世界的に重要な資料群が大量に被災したことから、急速に科学的かつ大量処理のできる救済技術の研究と開発を促す機運が生まれてきた。それとともに、作業の目的においても、従来の「職人技で美しく、過去の歴史や真正性を消していく修理方法」への批判と反省が芽生え、「資料の有する元々のオリジナリティや過去の痕跡を科学的に調査し記録し残していくこと」が求められるようになり、科学的な修復(コンサベーション)という理念と資料保存の原則が形成されていった。
リーフキャスティング法という修復技法は、このような時代背景の下で発想され、発展していった。その発想の原点を、日本でリーフキャスティング法を「すきばめ法」と命名し、日本での先駆者として研究にあたり紹介した、東京国立文化財研究所第二修復技術研究室技官(当時)だった増田勝彦氏の1977年10月25日付読売新聞の記事に遡って考えていきたい。

2.日本に紹介され実用化された「すきばめ法」

今から36年前の「読売新聞」記事の見出しには、「古文書補修の新兵器」「虫食い一ページ数分で」とあり、リーフキャスティング法に期待された時代のニーズと未来への願いが表現されていた。
ここでは紙面の制約もあり、詳しい読売新聞の記事内容や内外でのリーフキャスティング法の歴史とメカニズムについて述べられないが、『小平市立図書館の資料保存と古文書補修』(東京都文化財保存事業「小川家文書保存修理に関する報告書」)(平成19年3月15日に小平中央図書館から発行)が刊行されており、部分的にウェッブでも公開されているので、内容豊富な同書を参照いただければと思う。
ここでは、増田氏のその後の地道な歩みが追い風となり、日本で初めて業務としてリーフキャスティング法を用いた修復事例となった千葉県文書館のことなど、当事者でないと語り得ない事を優先的に書き留めておくこととしたい。1987年に設置された千葉県文書館は、非常に意欲的で熱心な館であったことから、職員の方々は当時の宮内庁書稜部、東京国立文化財研究所、国立史料館などを積極的に訪ね、望ましい保存環境や修復方法についての視察・情報収集を重ねられていた。収蔵資料中に取扱いの困難な損傷資料が多々含まれていたことから、修復の必要性を検討されていた。折しも、筆者がデンマーク留学から戻って、東京国立文化財研究所においてスウェーデン国立博物館所蔵「スウェン・ヘディン楼蘭文書コレクション」の調査と展示のための処置を行うプロジェクトに加わっていたことなどから、増田技官らの紹介もあり1988年6月に創設した東京修復保存センター「五日市アトリエ」を千葉県文書館の方々が見学されることとなった。
早や24年もの歳月が過ぎ、記憶の失われている部分もあるが、東京修復保存センターに残された「修復記録」では、1989年度の修復作業として28点、90年度の作業として20点の記録が残っている。現在の東京修復保存センター工房の規模や設備と大きく異なり、設立当初は修復の仕事は少なく、広島アンデルセンというベーカリーのバレンタインやクリスマス用パッケージを製作して糊口をしのぐような状態で、リーフキャスティング作業は筆者一人で行っていた。
筆者がリーフキャスティングと出逢った発端は、デンマーク政府国費留学で1984/85年にかけての滞在中に見た、「Beskyt og Bevar」(保護と保全)というコペンハーゲンの王立図書館で開催された展示会(会期84年10月12日~11月17日)であった。その展示会などについては、金谷博雄氏が発行人だった『ゆずり葉』25号(1985年1月発行「来信」)および27号(1985年3月発行「デンマークだより」)に寄稿記事がある。留学の受入れ機関は、オーフス大学・国立博物館・王立文書館の3機関であった。オーフス大学の敷地は広大で、3歳となった長男も一緒だったことから、夏から秋の緑あふれるキャンパスや旧市街野外博物館を繁く散歩した。コペンハーゲンの国立博物館では、東洋部のジョアン・ホーンビュー学芸員が親身に世話をしてくれた。冬の厳しい時期だったが、屋根裏に小さな部屋を用意してくれ、「日本・デンマーク交流史」の調査研究に専念できた有難い場所だった。また、デンマーク文部省担当者の理解と支援で、王立アカデミー・修復保存技術学院での講義を特別に在籍受講させてもらった。後に師となるペア・ラウアセン氏のリーフキャスティングの実演授業もあった。デンマークにも虫損のひどい古書や古文書はあったが、日本の収蔵施設で見た和漢書、地方(じかた)文書の虫損被害の甚大さと量の多さは際立っていた。まだその頃は、自分自身が「修復家」になるとは夢にも思っていなかった。グッと肩を押したのは、日本での「酸性紙問題と資料保存」への関心の高まりと、1987年10月に国際交流基金の招へいで来日した王立アカデミー修復保存技術学院H・P ・ペダーセン校長であった。
すでに39歳であったが、修復家になるべく1987年にスカンジナビア・ニッポン・ササカワ財団の助成を受けて、デンマークに3度目の留学をした。昼間は学校に通い、早朝と授業の無い時間帯に王立図書館で修復技術を学ぶ、休む間もない日々を過ごした。
リーフキャスティング法の開発の動機や目指す点は、増田氏が読売新聞に説明されたように、「古文書補修の新兵器」として従来の手仕事だと数か月を要する補修作業を、一頁を数分で済ませられる効率化にあった。結果として、単に補修のスピードアップだけでなく、虫穴や欠損箇所だけをピンポイントで補修でき、紙背文書であっても「裏打ち」のように補修紙を全面に被せないことから、鮮明に文字が見え補修後の厚みが増えないという効用もあった。また、裏打ち補修法と異なり、接着剤の糊を使わないでオリジナル本紙と補修用の繊維が水素結合によって接合され、穴や欠損箇所を埋めることが可能となった。資料保存の原則に掲げられた「可逆性」にとっても、接着剤の糊が不要なので望ましい。この水素結合を確実に達成するためには、リーフキャスティングした本紙を適度な加圧状態でゆっくりと乾燥させることが必要であった。単に、リーフキャスティング法を使っていると言っても、時間をかけて加圧せず乾燥させる方法では、水素結合が不十分となり糊類を塗布して強化接合させる必要があった。
実際の業務で使用するためには様々な難関があり、ノウハウを培わなければならなかった。例えば、a.繊維が長く強靭な和紙の繊維を西洋式の方法で適用しようとすると、たちまちにして揚水ポンプが詰まって汲み上げができなくなる、繊維が団子のように結束する、あるいは修復するオリジナル文書が作業中に動かないように載せてある格子板に長い繊維が引っかかって計算通りの厚みに補修できない…。b.西洋式に倣って加圧しないで風乾させると、糊を塗布しないとならず、仕上がりが固くなってしまう…。c.和書の沢山の虫穴は、西洋本の虫穴より微細で、穴の周囲に繊維の毛足が残っていて、修復穴埋め用の繊維が穴全体に精確に入らないで隙間が生じる…。d.和紙の繊維は洋紙の繊維より水の中での動きや分散が悪く、仕上がりに繊維のムラが出来る…。e.西洋紙の穴埋めに用いる決められた繊維の分量では、和書には多すぎる…、などなど。思い返すと、高知県紙産業技術センターや各地の漉き場の方々の厳しい手助けや昔の知恵(延喜式の紙の製法など)の伝授がなければ、とても満足できるレベルへの到達は不可能であった。
1991年にIADAウプサラ大会で、和紙文書へのリーフキャスティング法の適用事例を発表し、国際的な場で技術評価を得ることにも努めた。今や、リーフキャスティング法は一定の技術レベルとなり、日本の各所の工房で使用されていることを思うと、少しは資料保存に貢献できたのかもしれない。

3.リーフキャスティング法との25年

創業後も修復実務的には、デンマーク王立図書館の製本修復工房の先輩たちに負うことは多かった。頻繁に各国を訪ね、情報交流しながら技術革新に努めた。使用するマシーン自体も、ニーズに応じて何度か特注して輸入し、入れ替えてきた。日本では、未だに業務用として全自動の連続式リーフキャスターの需要は生まれていないが、インドネシア国立文書館(Arsip Nasional RI)では2000年から使っている。劣化損傷が著しく大量にあったオランダ・東インド会社(VOC)文書の修復のために、日本政府の文化無償案件として連続式のリーフキャスターを含む機材が、インドネシア国立文書館に導入され、アチェ津波被災文書の復旧作業にも活躍した。
時代の変遷を回顧すると、1990年代初頭頃から世界的に「プリベンティブ・コンサベーション(予防的保存処置)」を推進する動きが高揚し、アクティブ・コンサベーションを推進する動きは低調となった。その結果、世界的にアクティブ・コンサベーションを行う部署の閉鎖や教育内容を転換させる傾向が強まった。そして、あれから20年以上の歳月が過ぎ、インドネシアに拠点を移して思うことは、依然として扱えないほど劣化損傷の著しい文書群や本を、東南アジアやアフリカ地域のアーカイブズや図書館などでは、膨大に所蔵することだ。また、アチェの大津波後に経験したように、世界銀行やインドネシア政府の要請で、津波で水没した16トンもの重要文書を救出し復旧できたのは、アクティブ・コンサベーションを行える設備や損傷のひどい膨大な文書類を日常的に修復してきた修復家が存在したからだ。プリベンティブ・コンサベーションの波がこのまま広がると、大規模災害後に「対応できる実践経験豊かな専門人材がいない」「必要な設備がない」「損傷の著しいコレクションの原物保全をあきらめる」という隘路に陥り、将来的に次々と襲い来る巨大災害後に必要となる、ダイナミックなアクティブ・コンサベーションを担う拠点や専門人材を切り崩していくこととなる。先進諸国が主導したプリベンティブ・コンサベーションという概念と手法は、益々増える巨大災害後の救済や発展途上国の劣化の著しいコレクションに対しては、先見性に欠け問題をはらむ方法論であった、と回顧する。
だが、一旦動きだした振り子の向きを変えるのには、また長い時間を要する。とは言え、普段目に見えないあちこちで、大災害の危機は忍び寄る。平成23年6月に東京都環境局が公表した『東京都の地盤沈下と地下水の再検証について -平成 22 年度地下水対策検討委員会のまとめ-』では、昭和36年に地下水の大規模揚水を規制して以降、地下水位は上昇に転じ、都の測定井戸の大半で20-40メートルの地下水位上昇が観測され、板橋区の測定ポイントでは60メートルの上昇であった。この影響は地下構造物が多い都市では注意が必要となる。例えば東京駅の昭和47年に建設された総武・横須賀線地下ホームで、約20メートルの水位上昇が観測され、ホームの浮上対策として200キロの鋼鉄アンカーを70本打ち込んだ、とされる。地下コンクリート壁の漏水対策も深刻となる。地上においても、地下8層の新館書庫を保有する国立国会図書館の周囲を先般歩く機会があり、位置的に高台にありながら2006年の都市洪水に襲われ、甚大な被害を蒙ったアメリカ・ワシントンDCの現場を歩いた時と似た思いをもった。筆者が都市洪水被害から数週間を経たワシントンを訪ねた際には、応急処置は一段落していたものの、大規模改装後に地下が2メートルほど冠水した国立公文書館展示館(旧館)や官庁街では、巨大な除湿・排気ホースが設置され、作業車が随所にウナリを上げていて、その復旧作業には多くのスキルと設備が必要であり、大変な手間を要する作業になることを教えられた。
リーフキャスティング法を巡る社会の意識の変遷は、アクティブ・コンサベーションの動静と大きく連動している、と考える。私たち日本人が、欧米から生まれたプリベンティブ・コンサベーションの方向を向いていくか、取扱いできないような甚大な損傷資料を多く抱え、巨大災害にも見舞われやすい東南アジアやアフリカの方向に向いていくのか、改めて激甚化する「災害の時代」において、アーカイブズの使命と共に、私たちは問われていると考える。

■『千葉県の文書館』(平成25年度 第19号) に寄稿したテキスト(「資料の保存と修復―「リーフキャスティングによる紙資料の修復と保存について」― 」)からウェブ閲覧用に制作しました。

参考:リーフキャスティングの歴史