コラム

建築図面のペーパーコンサバターとして生きる私① 安田 智子

●建築設計事務所のライブラリアンとしてスタート

バブル期後半1989年から5年間大板の日建設計で司書として勤務していた私がペーパーコンサバター(修復保存家)を目指して設計事務所を辞め、大学で修復を学ぶまでを第1回目に綴りたいと思います。
私と建築との接点は、大学生の持に訪れたイタリアの街並み景観の美しさに感動し、卒論で「イタリアの都市計画~歴史的景観と文化財の保存と活用~」をテーマとしたことがきっかけです。日本の街並みが美しくないのはゼネコンや建築設計事務所のせいではないかと短絡的な考えを当時持ってしまった私は、それを確かめたく大阪の日建設計に就職を希望しました。運よく採用され、面接で本を読むのが好きかと聞かれ、「好きです。特に図書館で読むのが好きです。」と答えたためか、データセンターという情報管理部門に配属され、建築図書の保存管理への関わりが始まりました。
データセンターでは建物の計画段階から竣工後までに発生するあらゆる資料(具体的には図面、写真、建材力タログ、図書、雑誌、AV資料等)が収集、保管管理されていました。私は図書雑誌の担当になり、建築のライブラリアンとして建築意匠だけでなく、設備、構造、インテリア、土木など、社内の全ての部署に必要な専門図書や雑誌、論文集、ビデオ、新聞などの広範な資料に目を通すことになりました。組織が大きかったので受け入れる資料の量も膨大で、私の机の横には登録を待つ最新の図書や雑誌が常に山のように積み上げられていて、待ちきれない本好きの設計者たちがよく隣で立ち読みしていました。
新着資料の保存のほかに重要なライブラリアンの仕事はレファレンス業務です。百年の歴史ある書庫には国内や海外の古い雑誌、論文集のパックナンバーが合冊製本されて創刊からほとんどそろっており新旧の情報から充実したレファレンスが提供できました。新しい資料やデ―タは簡単に誰でも入手できるようになりましたが、古い文献や雑誌等は持っていなければ専門図書館や有料データベースなどを利用しなければならず非常に貴重なものです。頻繁に貸し出しに供された本は傷みが激しく、背表紙が外れたりページが破損しているため、ボロボロになった本などは貸し出しを極力禁止にしてコピーを代行するなどして、損傷が広がらないように工夫していました。

●やがて修復に目覚める

今振り返って私がデータセンターで経験し学んだことは、「資料の保存と活用は表裏一体」ということです。ただ持っているだけで管理を怠ると資料は傷み紛失し活用できなくなります。一方、活用されないと存在価値が理解されず正しく保存されません。図面などの価値を知り、将来における必要性の有無を的確に判断できる専門家、つまり資料の保存と活用のバランスをわかる人材が保存管理部門に必要です。専門約知識のない担当者の一時の判断で現在は必要ないからと捨ててしまえば将来に禍根を残すことになります。
「前ばかりを見る」今の価値観からいえば古い図面や雑誌のパックナンバーのたぐいはスベスを占めるやっかいものとしか映らないかもしれません。そのような風潮に対して、オリジナル資料がいかなる価値と情報内容を有しその中から有用なものを保存し、図面類などを傷めずに後世に伝えることを実践する専門家の存在は大切で、もしそのような存在がなければ、貴重な資料といえども、簡単に廃棄の運命に遭ってしまいます。
保存理念や修復技術を持った専門家により、過去の貴重な資料が埋もれず未来に残すことができると感じ始め、資料保存への関心が私の中で強くなってきた頃、卒論でイタリア建築の保存再生について調べていた時に知った歴史的建造物に描かれたフレスゴ画や美術館の油彩画などを地道に修復していたコンサバターを思い出しました。資料保存の実践として、歴史的遺産を自分の手で修復して後世に伝える仕事をしたいと考え始めていた私にとって「Conservator(コンサバター)・ 修復保存家」こそが資料保存の考えや修復技術を学んだ専門家であり、目指す職業であることに気づきました。
思いたったらなんとやら、私は自分が「修復」の仕事に就く手段はないかと片っ端から調べあげ、これはと思う国内の修理所、修復工房に電話をかけまくりました。ここで、私は現実の世界を知りました。「十代から弟子入りして徒弟制度で修行するしかない」という答がほとんどで、「大卒の場合は東京芸術大学大学院に進学するしかありません」といわれ、当時二八歳の私は「この道を志すには遅すぎる」といわれました。*1)
私はあきらめきれず、たまたま図書館で見つけた「美を守る:絵直し稼業」 (玉川大学出版部1975)の著者で油彩画修復家・黒江光彦氏に「文化財の修復に携わる道はないでしょうか?」と相談の手紙を出しました。「新設三年目だが東北芸術工科大学(山形市)の文化財保存科学コース *2)で自分が教授をしているのでそこで学んでみてはどうか?」とアドバイスしていただきました。
そのコースには編入制度がなかったために再び四年制大学の一年生から始めなければならず、時間の無駄ではないかと周囲の心配もありましたが、四年間みっちり勉強して絵画のコンサバターになれればよいと東北芸術工科大学に入学しました。

●大学でコンサバターを目指す

文化財保存科学コースは、①油彩画修復、②仏像彫刻修復、③遺跡保存、④保存科学の四つあり各学年、各コースに三~五名の学生がいました。一、二年生では一般教養科目と並行して文化財に関する全般的な講義や科学的実験を履修し、三、四年生で作品修復の実技訓練と修復理論、概論の講義を履修するというのがコースの概要です。授業内容は講義が中心で四年間に実際の作品の修復技術を習得する実技時間が非常に少なく、タイプの異なる作品へのアプローチや技術を経験する機会が非常に少ないものでした。これは教える側の作品提供の事情、日本における文化財保存という分野がまだ新しく学問として体系化されていないため教科書や専門書も少なく、科目が体系的に定まっていないなど教育環境にかかわる問題で、十年余たった現在でも状況はあまり変わっていないと思います。
もちろん、大学入学の選択は決して無駄ではありませんでした。美術史に始まり、文化財修復概論の中で日本の文化財保護法などの法制史的背景と理念を学び、素材学で絵の具や紙、織物、木材、金属についての知識を得、保存科学実習では赤外線、紫外線、Ⅹ線による作品の最新の科学的分析や調査方法が修得できたからです。自分の専攻する油彩画以外の保存修復の授業では日本の修復史や現状、資料保存の考え方を学ぶことができました。
伝統的な表具工房での徒弟修行においては、数年から十年以上かけて毎日コツコツと作品と向き合いながら師匠の技術の修得と実地経験が得られます。一方、大学教育では作品を修復する体験は少ない代わりに、四年間で様々な専門知識や理論、作品に対する多角的な科学的アプローチの手法や最新の修復技術を駆け足で学べます。工房での修行と大学教育を比較しても、どちらも一長一短といったところかも知れません。ただし、大学で一所懸命勉強をすれば一人前のコンサバターになれると思い込んでいた私にとっては、先を行く先輩たちが一週間にたった二~四コマほどの修復実技の授業を受けている様子に次第に不安を覚えていました。

●阪神淡路大震災と文化財

コンサバターを目指していた私にとって契機となった出来事が大学一年目の冬1995年l月17日に起きた阪神淡路大震災です。私は宝塚市の実家が被災したこともあり大震災による被災文化財の状況について調べ、被災地域の美術舘・博物館の被害報告書や現地で救援活動を行ったコンサバターなどを取材しました。災害が発生した場合、人命の救助は警察、消防、医者たちがおこないますが、文化財の命を救うのはコンサバターです。被災した文化財の救援のための専門家派遣の準備や非常時における具体的な対策がなかったため、ボランティア活動を十分に活かせなかったこと、行政や法規上の規制でコンサバターが迅速な行動をとれなかったことなどがわかりました。文化財を保管する博物館や美術館は避難所となりコレクションの手当てどころではなかったとの実情から、被災舘や被災したモノを支援する専門的ケア、日頃の備えや訓練、組織的ネットワークの構築が課題となりました。
たとえば、倒壊建造物の危険度診断に多くの建築家や構造の専門家が派遣されたように、速やかにコンサバターが派遣されるようになれば、被災した美術館や博物館、個人蔵の資料の破損状況を診断して、支援活動のお手伝いができると思います。話をうかがったコンサバターの「もっと適切に対応できていたら救えたものがもっとたくさんある。いわば人災だよ」と言われた言葉が今も心に残っています。
大学では目の前にある一枚の油彩画をどうやって修復するのかだけ考えていた私は、震災の文化財の被災調査を機に、災害時に大量の作品が一度に大きなダメージを受けた場合、どうやって早く救い出し修復手当てをしてよみがえらせるのか、また、日頃からいかに資料が傷まないよう予防策に配慮するかといった先を見通した発想も今のコンサバターの仕事に必要であることに気付かされました。以来、文化財を脅かす災害対策(自然災害と人災共に)は私にとって重要なテーマとなっています。

●ヨーロッバ留学で再びコンサバターを目指す

震災の後、三年生に進級して待望の修復実技が加わり、実際に作品に接する喜びを初めて実感できました。
①作品観察・劣化損傷診断→②写真撮影→③調書作成→④洗浄→⑤裏打→⑥欠損部への充填→⑦補彩→⑧二ス塗布→⑨完成撮影、というのが一般的な油彩画の修復工程です。
①~③は修復方針を決める重要な前作業で、撮影では必要に応じて斜光線、紫外線、赤外線などの光学的な調査を行い詳細な分析をします。特に、紫外線を当てると過去に後から加筆された部分が黒く映るためオリジナルと判別することができますし、赤外線によって下に隠れているデッサンが見えて画家の意図の変更などがわかる場合があります。たとえば火事で画面が焼け焦げて真っ黒になって何が描かれているのかわからない作品をⅩ線撮影で観察すると、重い元素を含んだ絵の具がⅩ線を吸収して白く見えます。その絵の具で描かれた部分が白く浮かび上がり、人間の形や表情が判別できたこともあります。
実際の修復では百号近い大作の木枠張りや補彩の色合わせなどに格闘しました。しかし、基本的には教授の言う通りに修復しただけで、自分で考える機会は意外と少なく、三十年以上前にフランスで修復を学ばれた教授から自分が学んでいるのは「教授の修復の考え」「教授の技術」であり、一体その考え方が現在でも本当に通用するのか、世界的にコンセンサスの得られた考えなのか、他の技術はないのかという素朴な疑問から自分自身に確固とした修復理念が得られませんでした。三年生の終わりに卒業論文と進路の相談の際に、教授に思い切って「欧米のコンサバター育成の現状について知りたい」と聞いたところ、「それをあなたの卒論のテーマにして、欧米の修復教育機関に資料請求して進学先を探したらいい」と留学を勧められました。自分自身、大学を卒業して「私はコンサバターです、仕事ください」といえるような自信はまったくなく、かといって、また留学したい教育機関も知らなかったため、留学先を見つける卒論とは面白いと思い取り組むことにしました。
取り寄せたイギリス、アメリ力、イタリア、フランス、デンマーク、ドイツなどの大学や専門学校の受験資格願書の内容を項目別に一覧にしてみました。ほとんどが、「資格:大卒。テスト:美術史、化学。実技デッサン、修復(経験あればなおよし)」 という非常に高いレベルが求められていることがわかりました。海外の学校では美術史、化学、実技三つの知識と教養と技術をすでに備えている人に受験資格があるのです。そして「美術館と提携して作品を生徒の実習に使い、ライブラリーを完備して、在学中あるいは卒業後にインターンとして修復現場で働く機会を与える」とあり、本格的に専門家を育成する教育環境が整備されています。
つまり、欧米の教育機周は①アカデミックな教養や理念と科学的知識と同時に、②様々な作品を修復する技術修得の機会を与えた上で、③在学中や卒業後に博物館などでのインターンを通じて豊富な現場経験を積ませるといった三本柱の教育システムです。英語でいうと
① Education (知識)、② Discipline (訓練)、③Experience (経験)、の三つを与える教育です。
日本の場合は大学での教育が①知識を与えること、伝統的な工房でのそれが②訓練にあたり、③のインターンなどの経験がつめる機会はほとんどないのが現状です。
海外の教育機関の魅力は十分すぎるほどわかった一方で、学生に要求されるレベルも高くその水準からかなり低い私は行ける学校を探していた時、震災の調査で一度会った震災記録情報センターの坂本勇氏から「ベトナムとインドネシアの歴史文書の調査メンバーに加わりませんか?」と声をかけられました。私は紙や歴史文書、ベトナムやインドネシアのことは何も知りませんでしたが何事も勉強と参加しました。ハノイやフ工、ジャ力ルタで大量に劣化し損傷した状態の文書群を見て、歴史的価値を有する文書が度重なる洪水や戦乱で傷んでいる危機的現状を知り、紙の歴史文書の修復保存の意義や重要性にワクワクしました。
私が留学を志望していることを知った坂本氏や他の修復家の方から「紙の修復を勉強するならオランダ国立文化財研究所*3)の附属修復学校が絶対いいよ」と強く勧められました。「この機会にまたーから紙の勉強しよう。」と今度は行ける学校ではなく行きたい学校を目指し、特別に入学を許可され日本人初の学生になりました。留学先として飛び込んだオランダで受けた紙の修復教育と博物館やアーカイブでの研修は私の修復の考えに大きな影響を与える経験となりました。

1)1992~1993 年ごろの話で、現在では学部や大学院で文化財修復コースを設けている大学は東京、京都、奈良、山形など全国にあります。
2) 現在、美術史・文化財保存修復学科
3) Instituut Collectie Nederland (ICN) 現在、The Netherlands Institute for Cultural Heritage

■『建築の研究』(No.163, p.8-11, 2004.06) に寄稿したテキストからウェブ閲覧用に制作しました。

建築図面のペーパーコンサバターとして生きる私②