BCPレポート 被災企業訪問記 経営者に聞く
株式会社 阿部長商店 代表取締役 阿部 義浩
南三陸町と気仙沼で、観光事業部としてホテルと水産事業部として鮮魚加工と食品加工を営んでおり、三陸で最大規模の水産加工会社として名高い会社。震災時には、各部門で400名ずつの社員がいました。もともと気仙沼市街は平地が少なく、町の中心は海側に面しており、その大部分が被災した。阿部長商店の水産工場は当然港のそばにあり、9つあったうち8つも被害を受けてしまった。せっかく築いてきたものの多くが流されていった、そんな苦しい経営状況の中で、800人の雇用を守ることを被災後の早い段階で決断した会社として知られています。
●社長は出張中で連絡取れず 通信網の寸断
震災時、社長は中国・上海にいました。帰国の便もままならず、2日後に中部国際空港に向かう便にようやく乗ることができ、その後は陸路で東北を目指しました。その間、通信網はまったく使えず、現地と連絡を取ることもできませんでした。震災の直後だけは、「6mの津波が予想されるので高台に避難する」という報告を工場長から受けましたが、それ以降はどことも連絡が取れなくなってしまいました。
現地においても、企業内での横の連絡はまったくとれていない状態が続いていたようです。安否確認も難航しており、地震が起きて6日後に気仙沼の人たちを集めて情報収集するなどして、口づてで情報を交換しながらの確認です。震災後2週間過ぎてやっと800人のうち5名の方が亡くなられたという、最終的な確認できました。
やっとのことで気仙沼に到着したのは地震後3日たってからでした。東北を目指す途中、テレビで報道の映像を見て、気仙沼に火災が起きたことを知っていました。ホテルも含めて全滅してしまったかと道中、覚悟はしていましたが、従業員も津波からの避難はできたかもしれないが、火災でやられてしまったのではなかろうかと怖れていました。ところがやっとのことで帰ってきたときに、無事な姿のホテル2軒が見えました。これなら従業員も大丈夫ではないかと安堵しました。もしこれでホテルが壊れていたり、燃えてしまった姿を見たら、きっと絶望してしまったことでしょう。ダメだろうと思っていたものが、気仙沼に帰ってきて、建物も従業員も無事であることが確認できました。これだったら再起できるかもと気を強くしました。
●気仙沼の復興に向けて ホテル経営の継続
ライフラインの復旧はずいぶんと時間がかかり、1ヶ月半近く、水も電気も無い状態が長く続き、治安に対しても不安を感じ、町の雰囲気も物騒に感じていました。自分たちのホテルの中は安全だから、ライフラインの復旧後に避難住民を受け入れられるように、準備を行ないました。
被災を逃れたグループのホテル「気仙沼ホテル観洋」には、200人の二次避難者がいて、災害救助・生活支援の避難所として一緒に暮らしています。地域のための役割が果たせていると感じています。今まで観光事業部で得ていた収入には程遠いですが、避難者への補助金が行政からが出ています。この収入でホテルの経営を継続するために、いろんな工夫を始めました。オペレーションのやり方で、今まで10人でやっていたものを5人でできるように工夫したり、食材のやりくりを工夫したりして、それがうまく回っています。従業員の質は間違いなく上がってきています。
●勝算があるわけでは無いなかで、雇用を守ることを決めた理由
800名の従業員の雇用継続を早い段階で打ち上げたのは、震災後、「これで終わるわけではない」と思ったからです。再起には人が必要となります。だから選択として、従業員の解雇は頭になかったのです。経営の幹部の中には解雇をすべきという声も当然ありました。けっして勝算があったわけではありません。経営陣を説得するのが非常に大変でしたが、雇用を守ることで押し切りました。こういう地域では常に人材がいるわけではありません。ただでさえ仙台や東京に人材が行ってしまうのに、ここに仕事が無くなれば、確実に人がいなくなってしまうでしょう。仕事があって始めてここに暮らしている理由がつくのです。家族を亡くし、知り合いもいなくなり、そこで仕事も無くなれば、ここに暮らす理由が無くなってしまいます。
雇用を維持しながら、このホテルを避難所として、被災した従業員もこのホテルで暮らしています。このホテルの上層階では、雇用を維持するため、厚労省の「緊急雇用安定助成金」を活用した職業訓練を行なっています。事業が再開すれば、その仕事に従事してもらうことになっています。
●雇用の創出に向けて 新しい事業の立ち上げ
やむなくみんなで「ひとつ屋根の下」暮らすことになったわけですが、そのおかげと言ってはなんですが、こういう状況になってみて、実は見えてくるものがありました。みんなが留まってここにいるおかげで、今までは通過する形が多かった職場での従業員同士の関わりが密になって、結果として観光事業部と水産事業部の交わる機会が生まれたのです。震災を契機にして仕事の質が高まりましたし、従業員の意識も変わったと実感できています。阿部長商店の強みは、観光と水産のふたつがあるということに、経営者のみならず従業員みんなが気づき始めたのでしょう。
水産と観光の融合のひとつの形として「気仙沼お魚いちば」(2011年7月24日オープン)を作りました。震災後はじめて、新しい事業所が立ち上がった、ということで、従業員の非常にいきいきした仕事ぶりを見ることができるようになりました。行政の復興計画の方向性が見えず建築制限がかかり足踏みを強いられている状況で、事業所を立ち上げることは無謀な賭けなのかも知れませんが、無理してやってよかったかな、と思っています。「気仙沼お魚いちば」での目玉商品は「気仙沼ふかひれ濃縮スープ」。震災前まで当社で扱ってなかったものなのですが、観光事業部のホテル観洋グループ総料理長が監修して、水産事業部の食品加工部隊の人たちが生産ラインを作るために検討を重ねたり、本社の経営企画室が販促ツールを作ったり。観光事業部、水産事業部、本社の3つがうまくチームを組んで新しいものが生まれました。震災前ではこのような「融合」を取ることはできなかった。いままではそれぞれの部門での縄張り意識のせいか、3部門どうしの敷居が高く、横のつながりを持ちづらいところがありました。震災で「失ったもの」は限りありませんが、このように「得たもの」も限りなく大きなものがあります。
●芽生え始めた経営感覚 質の高い経営に向けて
震災後の制約を受けた状況下で、なんとかやりくりをしながら事業を継続をしていますが、経営者側の意識の変化が生まれました。まず経営を数字ベースで見るようになりました。週ミーティングを行ない一週間の単位で数字を集計、次の一週間の予測をしたりするようになりました。今までどちらかというと感覚的に行なっていたのです。
従業員にも変化が見え始めました。いろんな場面で工夫をする姿を頻繁に見るようになったのです。これまでは、水産事業部の工場内では、横のつながりができていましたが、どちらかというと観光事業部のホテル同士の横のつながりはあまり見受けられませんでした。グループ全体としてみんなの意識が変わっていくなかで、水産事業部でこれまでうまくやっていたこと、たとえば人を増やさなくてもできる交代制のノウハウとか、そのような動きもホテルに導入されました。観光事業部ではこれまでなかった、横の連絡を密にする意識が芽生え始めたのです。
今、このホテルを発信源として、いろんな企画やアイディアが出てきます。同じ意識を持つみんなが「ひとつ屋根の下」で暮らし、みんなが危機感を持って、どうやったら良くなるのかを真剣に議論しているのです。これは、平時で余裕があるときでは、意識を変えたくても変えられなかった事ではないかと思います。社長も従業員たちと同じ屋根の下で生活を共にしていくなかで、いろいろなものが見えてきたし、経営者とはなんだろうかというものが見えてきました。平時において人の意識を変えていくのはとても難しいですが、ここまで追い詰められてなくても良いんじゃないか、という極限のところまで追い詰められて、社長のみならず従業員全体の本気度が高まったのでしょう。
●地震に対する備え 慣れからくる油断
今回の津波については、油断していて備えはできていなかったとしか言えません。例えば2010年2月のチリ地震の津波。1~2m程度の津波でした。三陸沖を震源とする地震の警戒はしていましたが、10mを超えるようなものはないだろう、と高をくくっていたところもあった気がします。
震災対策マニュアルなども、本来ならば作っておくべきであったのでしょうがありませんでした。確かに今回は、マニュアルがあったらどうかといえば、今回は想定をはるかに越えた規模の津波であったから、効果のほどはどうであったか疑問ではありますけど、もしかしたら、今回の被害の規模をもう少し抑えられたかもしれません。
デジタルデータの保存していたサーバーが流されてしまいました。もう少しこういうことを考えていれば、津波のこないような高台にサーバーを置いたり、たとえばこのホテルの上に場所を作ってサーバーを設置すれば、会社の基幹データ損失は免れ、被害を小さくすることができたでしょう。
●あとから気がついた、先代が持っていたBCMの意識
今度の大震災で、水産部門が壊滅的な被害をこうむった後、先代(社長の父親)が一番落ち込むだろう、事業意欲もなくすだろう、と思っていましたが、蓋を開けてみたら、いちばん元気でした。その理由は「51年前にいちどは全てが無くなったんだ」という先代の経験でした。先代は南三陸町で魚屋をやっていて、チリ地震の津波で店舗も財産も流され、気仙沼にやってきて操業を始めました。それが阿部長商店の始まりなのだと。その話を先代の口から聞いたのは、実はこの大震災後でした。この災害の経験は、こうなってしまう前に聞いておくべきだった、と悔やみました。
こんな出来事もありました。自宅は3階立ての2世帯住宅で、今回ここも津波被害にあい、大きな被害をこうむりました。震災前のある時、同居している先代が、「この家の屋上まで、非常階段を作る」と突然言い出しました。防犯上から反対したのですが、自分のお金でやると先代が押し切り、一階から屋上までの避難階段が出来上がりました。できたと思ったら、先代はすぐに近所の人も巻き込んでの避難訓練を始めました。何をやっているんだろうか、とその時は眺めていました。先代からは大昔の被災した話など、一度もされたことがありませんでしたから。
それが、今回の震災による津波のとき、近所の住んでいる社員や近所の人も、この非常階段を使って一緒に屋上に避難したそうで、多くの人の命が助かったのです。後から、これで助かったんだという話を聞いた時には驚きました。
今後はきちんと防災マニュアルを整備すべきだと考えています。避難・意思決定マニュアル・情報危機管理など、できれば細部まで作ったほうがよいと考えています。
※この記事は2011年7月に、現地で行なった取材をもとに作成したものです。