BCPレポート 被災企業訪問記 経営者に聞く

株式会社 高田自工 代表取締役 長谷川 利昭

高田自工 長谷川社長

高田自工は50年の歳月をかけて、陸前高田のカスタマーからの信頼と絆で築き上げてきた、地域に密着した自動車整備工場。顧客目線を大事にし、販売からメンテナンスまでトータルでの車両の悩みに対してフルラインによる業務サービスを提供してきた。陸前高田市の壊滅状態に陥った地域に位置し、今回の大震災で工場もろともすべてが津波に流されてしまった。

●お客様の車の高台への避難から - 3.11 震災時の対応

震災のとき、地震があった後、まず行なったのはお客さんの車の避難でした。納車前の新車など車を高台に避難を始め、30分の間で2回の搬送、10台ほどは運べたが、3回めで津波が押し寄せてきました。波が向かってきていることに気が付いたのが幸いでした。3回目の搬送を強行するような間違った判断をしていたら確実に津波に呑み込まれていたでしょう。ほんと何分間かの差。そこで犠牲者がでたら、経営者として何か言われてしまったかもしれない。これはマニュアルなんかではなく、人命が第一という判断でした。
そのまま展示車など残った30台ほどの車は、工場の設備もろとも根こそぎ流されてしまいました。会社の総務のキーマンも亡くなってしまいました。家族が体育館前にいるからと先に帰したのですが、その人がひとり流されてしまって。他の従業員はみんな無事でした。

●復興支援 頼りになるのは行政ではない

地道に築き上げた経営資源を、あっと言う間に流されてしまったあげく、行政からは「勝手にはい上がれ」と言われているような対応を受けているように感じます。震災が起きてしまうまでも、誰にも迷惑がかからないような経営を目指して、借入金もきちんと返済しながら、滞りなく納税もしていましたし、消防用自動車、救急用自動車などの公共の車両の整備も、信頼されて任されていました。地域の信頼に応えるために頑張ってきたのです。正直、震災前の経営の質の優劣に応じて復興へ向けての保障が異なるくらいのこと位のことがあっても良いのでは、と思ったりします。今のところ、被災した前の土地をどれほどで買い上げてくれるのかさえわかりません。できれば借り入れなしでの事業が再開できる程度に買い上げしてくれたら、という期待はあるのですが、どうなるやらわかりません。

自ら開墾して整地した高台の新工場地

●雇用を守るための苦闘 新工場の建設に向けての障害

復興に向けての最初の問題は資金繰りでした。これまでの利益の内部留保はありませんでしたが、新工場を立ち上げるための資金調達として、政府金融公庫からの融資が得られる目処がつきました。ところが、資金繰りに目処がつき、建設会社に設計・建設を発注したところでつまづきました。建築確認申請のまま滞り、なかなか認可が下りずに塩漬け状態になってしまったのです。社員は失業保険をもらいながら、しのいでくれていましたが、工場の建設が前に進まぬところでは、やはりひとりふたりと欠けていってしまいました。工場さえできれば、従業員は力を合わせてやってくれる、と思うのに歯がゆい思いです。
新しい高台の事業所用地は、伐採とか造成までは自分たちでやりました。そこまでは業者で無くてもできますが、建物を建てるには業者に頼むしかない。それなのに動いてもらえないのです。後からわかったことですが、申請中のものが動かないのは、設計会社で順番待ちとなっているからなのだそうです。そんなことは、最初から言ってほしいことです。建設会社も案件の規模の大小で優先順位に優劣をつける気持ちは分かりますが、せめて発注の段階で、そのような事情を抱えているという話をしてくれたら、違う手も取れたかもしれないのですから。
被災した人たちは、避難所生活から仮設住宅に移り、暮らしが落ち着いてくると、今度は「収入があるか」ということが問題となってきます。自宅を建てなければならないといいながらも、収入がないと建てられません。就職先の企業を選ぶにしても、成長性のある安定した収入のあるところがよいでしょう。家族の方も悩むわけです。

●マニュアルに頼った結果、ここまでの被害になったのでは?

陸前高田市の中で、大きな地震の時に、こういう場合にはこういう風にするという「正解」なマニュアルは今回無かったんじゃないかと考えます。市役所の職員たち対応を見ても、老朽化した建物が倒壊するおそれがあるということで、庁舎の表に出ていたと聞きます。屋上に避難していたら助かったかもしれません。避難場所に指定されていた体育館に避難した人たちもマニュアル通りに動いた結果、流されてしまいました。
自らを振り返って、会社の販売や会計のデータは、やはり守る必要がありました。パソコンが流されすべてデータが失われてしまいました。事務所の2階にバックアップがあっても工場全体が流されてしまったのですから、備えになっていませんでした。こういうことは、マニュアルがあって、きちんと対応していれば守ることができたかもしれません。とくに失って辛かった情報は、売掛のデータです。頭の中で長期売掛金の覚えがあるところは尋ねていってお話すれば復活しますが、当然全部は無理です。取引業者の方も亡くなっていることもあります。津波によってお客さんからの信用も流されてしまったのです。

●支えてくれて後押ししてくれる、絆のネットワーク

こんな状況ですが、たとえば今ある代車のうちの一台ですが、工場にあったお客さんの車は流されてしまいましたが、また車を買ってくれて、復興に向けてがんばってくれと言って代車を返してくれたのです。中には売掛の残金が「これくらいあるよ」と、向こうから言ってきてくれるお客さんもいます。
後押ししてくれるネットワークがあります。一つは、所属しているロータスクラブ(自動車整備業者による全国組織)から震災直後に多額の義捐金を頂いています。一つは20年来の付き合いである油圧関連会社の方からも、いまの仮設のプレハブやその中のオフィス用品などの準備など、少なくない支援がありました。後押しして応援してくれている人たちがいるところで、後に引くわけにはいきません。石にかじりついても続けなければなりません。それはかけがえのない絆があるからです。仕入れ先との付き合いを大事にして、普段から正直な気持ちを積み重ねていけば、いざというときに手を差し伸べてくれます。信頼を得ることは積み重ねが大事だと感じています。

●震災を経験して、今、言えること

震災前に「備え」として何ができたのだろうかと考えます。例えば、高台に移転する、もしくは事業所展開をしたり、多角経営を模索するということ。それがあれば早期の事業回復もできたかもしれません。しかし投資として、設備にかけたり、事業を拡大したりする形と、社員の生活向上など福利厚生を厚くする形がありますが、今まで社員を大事にしてやってきました。こつこつと借入金を返済しながらも社員旅行もしました。また社員教育も行なっていました。事業所展開よりも、社員に対する投資を優先させたのです。今後も変わらず従業員を大事にする気持ちは変わりませんが、やはり一箇所経営ではない形も考えなければと思っています。
復興に向けてかじりついてやっていますが、震災を受けてしまった時点で、事業を辞めるというのも選択肢の一つだったかもしれないという考えが、今も頭をよぎることがあります。

被災した陸前高田のパノラマ画像 - ここよりもっと海寄りに高田自工の自社工場があった

※この記事は2011年7月に、現地で行なった取材をもとに作成したものです。