コラム

「保存と活用」の保証と災害対策
~水濡れ資料の救出と修復作業を通じて~ 児島 聡

1.はじめに

「資料が水害にあった」というとまず思い浮かべるのは天災でしょうか。洪水による浸水や火災や地震によるスプリンクラーからの降水など、大きな天災が引き金となった被害があります。ところが当社によく持ち込まれる水濡れ被害の相談は、天災よるものはほとんどありません。改築中の仮置きの倉庫での浸水だったり、輸送中の荷物を水に濡らしたり。ちょっと気をつければ防げたかもしれない事故です。しかも残念なことに、そのような被害にあった資料の修復の相談は、固着や変形などを起こして十分に乾燥してしまった後に、どうしようもなくなってから「直せないか」という連絡が入ってくるのです。
今回の事例報告も天災ではなく、空調システムの損壊が原因の漏水事故です。縁がありまして当社はその顛末に関わることになりました。事故発生時からのアドバイスに始まり、被害にあった資料の修復作業から仕上げまで。それら一連の流れを経ていく中で、水害が起こった時の対処法で大事なことは何かを捉えなおす機会となりました。この報告では今回の水害事例から非常時の拠り所となる大事な点をあぶり出しながら「保存と活用」を保証する上での防災対策とは何か、という問題を考えていくとともに、実際の水濡れ資料の修復作業の内容を紹介したいと思います。

2.資料が水濡れした経緯と経過

今回の被害は、國學院大學の竣工間も無いビルで起こりました。地下1階地上18階の高層ビルでの漏水による資料の水濡れ被害でした。最新設備を有するビルでの予期せぬ事故であり、たとえ新築物件であっても水害の危険があるのだということを思い知らされる一件となりました。

■事故の直後のアドバイス-確かな情報を得る窓口の確保

漏水があったのは2007年8月22日でした。その第一報を、國學院大學学術メディアセンター事務部図書館事務課課長の古山悟由氏よりメールで頂いたのが、その日の午後5時半のことでした。

児島様
図書館資料とは別件ですが、
水に浸かった和装本がありまして、至急修復をしたいそうです。
全部で300丁程度(9冊ほどで)かと思います。
見積もりなどをしてもらいたいのですが、近日中は可能でしょうか。
なお、それまでになにをしておけばよろしいでしょうか。
ご連絡をお待ちしております。


新着メールに気がつき、すぐさま電話を古山氏に入れて状況を確認しました。
漏水が研究室内で起きたこと、研究に使う資料が大量の水に浸ってしまったこと、現在は別室に水濡れした資料を置いていることなどがわかりました。当社の仕事の都合もあり、私がすぐに駆けつけることができない状態でもあったので、ひとまず一般的な水害時の対処方法についてアドバイスを電話口で行ないました。

  • そのまま放置して自然乾燥すると、乾く間に微生物、特にカビが発生すること。
  • 本紙と本紙の間に紙を挿入して、吸わせては取り換えるという作業が地味ではあるが効果的であること。
  • もし人的に都合がつかないならば、資料同士が接着しないように注意して、いち早く冷凍してしまい、その後の処置に猶予を持たせること。
  • 48時間以内の処置が明暗を分けること。

水害対策については古山氏も既知の部分が多く、私が伝える内容でその裏付けをとられているように感じましたし、実のところ、こちらも9冊程度なら「そう事でもないか」と考えていましたので、その時の切迫感はさほどではなかったような記憶があります。
翌日、どういうことになったかと古山氏に連絡を入れてみると、袋に入れて冷凍庫に入れ凍結させた、とのことでした。これで猶予が生まれたので、後日訪問させて頂くことをお約束しました。

■水害資料の救出と想定外の出来事-初動の対処

実際に足を運んで訪問できたのは一週間近くがたった8月31日でした。実はこの訪問までの間に新たな問題が起きていました。水害に遭ってから資料を冷凍するまで、すんなりとはいかなかったようです。
初動の段階で、研究室のデスクの上など表に出ている資料は救出されました。この時避難した資料は、薄手の和本が9冊、洋製本された資料7冊でしたが、既にしっかり水濡れした状態でした。吸水紙を挿入する乾燥法は人手の問題で断念し、古山氏は冷凍できるスペースの確保を手配し、翌日早々には資料はビニールで養生された状態で冷凍庫に収められました。非常に迅速な初動だったといえます。
ところが、新たな問題が事故から一日挟んだ24日になって発覚しました。「まさかロッカーの中は大丈夫だよね」と言いながら閉め切っていたロッカーを開けると、中が大変な事態になっていました。水の被害はロッカー内にも及んでおり、大事な資料も水に濡れて一部の資料には白いカビもうっすら生え始めていたのです。結果として手つかずで濡れた状態のまま、資料は高湿度の環境の中で放置されていたのでした。そこにいた方は「一日置くだけで、まさかカビが生えるなんて…」と絶句されたそうです。
結局、ロッカー内から発見された資料のほうが、表に出ていたものよりも量が多く、それらを追加で冷凍するために冷凍庫が3つになってしまいました。今回修復対象になった資料の大半は、ロッカーで発見されたものでした。
これは修復作業に入る際、解凍後に感じたことですが、資料にはそれぞれの資料群によって異なる「におい」がありました。埃にまみれた土蔵の中のようなすえた臭いや枯れ草を発酵させて家畜の餌になるサイレージの品質の悪いもののような発酵臭が、資料から「におう」のです。空調も止まったままで高温高湿の状態で濡れたまま放置されていた資料は、48時間を経てカビの発生のみならず、細菌により臭気まで発するようになったと思われます。

■水濡れ資料の救済について-日頃の備え

以上のように、水濡れした資料は緊急に手配できる学内の家庭用冷蔵庫を使用することになりました。この対処はベターな方法だったと思います。夏場でしかも空調が使えず、高層ビルのため窓を開放して空気の流れを作ることのできない密室状態です。そのまま放置すれば高温多湿状態の中で微生物の活動を助けてしまいます。人力での吸水乾燥作業がとれないならば、とにかく資料同士が接着しないように養生した後に冷凍保存すれば微生物の活動を抑える事ができます。今回はありませんでしたが、インクなどの書き込みのある資料の場合は、急いで冷凍できれば滲みを最小限にとどめることが期待できます。
このように、水に濡れてしまった資料に対して冷凍処置を行なうことは早ければ早いほどよいのですが、ベストな方法としては「超低温」という猛烈に温度の低い環境(摂氏マイナス40℃以下)で急速に冷凍してしまうことがあげられます。そして凍らせた資料は、常時摂氏マイナス18℃以下で凍結保存できる環境を用意すれば、微生物等の増殖を防ぐことができます。
参考ですが今回のような水濡れ後、冷凍した資料の修復方法としては、その乾燥法に二種の方法があげられます。「凍結吸水乾燥法」と「真空凍結乾燥法」です。最近はインターネットで検索してもたくさんの情報を入手できるようなので、ここでは簡単にまとめておきます。
凍結吸水乾燥法は、カビの生えにくい環境下で、冷凍資料を吸水材の上に置いて自然解凍した後に、本紙の間に吸水紙を挟み、何度も交換しながら吸水、乾燥させていく方法です。資料の量により人海戦術となるので、人員と広いスペースが必要となります。水濡れの状態によっては低コストになりますが、しっかり濡れている資料に対しては時間と手間がかかりコスト高となります。
もう一つの方法が真空凍結乾燥法です。真空凍結乾燥法は「物体内の水分を凍結状態から直接昇華することで物体内の液相移動をなくし、水蒸気として水分を取り除く方法」(*1)です。平たく表現すると、凍ったままの水分をいきなり水蒸気にして気化させてしまう方法で、資料が濡れの状態にもどらないまま水を取り除いてしまおうとするものです。
資料が水害に遭った時にこの方法が有効な理由は以下があげられます。

  • 水溶性のインクの滲み防止
  • コーティング剤による頁同士の接着を防ぐ
  • 紙の変形が少ない
  • カビの発生、虫害が防止できる
  • 凍結資料は保存できるので順次作業ができる
  • コストは人的作業を行なうよりも安い

水により膨潤したりはがれたりする素材は、その状態のまま乾燥するので、そのことを想定した扱いが必要となりますが、大量の資料を安全に乾かすのに、とても有効な方法であることは間違いありません。(*2)

3.初動の対応についてのまとめ

水害が起きてから冷凍保存されるまで、関係者の様々な苦労と努力を積み重ねた善後策がとられました。この実際に行なわれた初動の対応から得られることをまとめてみます。日頃から何に備えておくべきなのかを具体的に考える上で、今回の経験は貴重な事例になると思います。

■確かな情報を得るホットラインの確保

事故が起きてその対処が求められた古山氏は、当社を思い出して連絡を下さいました。緊急の事態に直面され、おそらくはご自分の頭の中の知識を整理する上で、当社を利用して頂いたものと思います。水濡れしてしまった資料を、まずはどのように復旧したらよいものか、その事に対して確かな情報を得る窓口が必要とされたのです。
事故が起きた直後というものは、当然ながら事態は切迫しています。優先順位を付けながら対処法を考え、冷静さを保ち続けながら行動に移すことは難しいものです。そんなパニック状態の時に、対処法を相談でき、冷静になることができるホットラインを確保しておくことは、災害対策としてとても重要なことでしょう。

■初動の対処

初動の対処については、よくできた点と結果として反省すべき点がありました。よくできた点は、迅速な資料の救出と、冷凍する場所の確保を実施した事です。反省すべき点は、不幸にも後から水濡れ資料が出てきた事です。決して見て見ぬふりのような放置ではない不慮の出来事ですが、この事例は、机上でいくら事故対応を想定していても、実際の現場では予期せぬことが起こり、資料への被害が深刻なものになりうることを教えてくれました。

■日頃の備え

資料を冷凍する設備についてですが、少量であるならば、10万円に満たない金額で摂氏マイナス40℃を保つことができる冷凍庫も市販されていますので、それを設置しておけば、いざという時に利用することができるでしょう。しかしながら大量の資料が被害を受けた時には大型の冷凍設備が必要となります。たとえば日本国内で超低温環境で急速冷凍するには、港湾周辺にある超低温倉庫業者に協力してもらい、冷凍保存する方法があります。当社もかつて関係者に尽力頂き、そのような設備での冷凍方法を取ったことがあります。また真空凍結乾燥作業も近年では民間の業者で行なえる環境が整ってきたようです。日頃の備えでは非常時に協力をしてもらえる業者と連絡を取り合っておくことは大事なことです。
そして、どの資料群を優先して救助するのか、またその救出避難先は、などの段取りを計画することも同じように大事なことです。(大災害の場合には、人命救助や建物の損壊、自分自身も避難民となることを想定しなければなりませんが)そのようなプランを事前に想定しておくことで、緊急時には混乱しないで冷静に対応できるでしょう。
余談になりますが、災害時の対策グッズとして、被災後48時間以内の救急マニュアル「文化財防災ウィール」(文化財保存学会編,クバプロ発売)があります。2002年に当社で「Emergency Response and Salvage Wheel」(*3)を日本語訳して発表したのを契機(*4)に、その後文化庁で制作・無償配布され、現在に至ります。冊子状ではなく円盤状ですので、壁に掛けておけば、災害におけるパニック時でも回転させればすぐに使える工夫がされていています。(*5) 海外では様々な災害対応グッズがあり、たとえばウィールでもデザインの素敵なものやおしゃれなカレンダー形式のもの、また日頃の備えを遊びでロールプレイングできる絵入りカードなど優れものがあり、そこには意識の奥深さと遊び心を感じます。それらのグッズは以下のような理念を具体化したものと思います。
「計画を成文化することは、災害対策の最も重要なステップである。第1に、成文化された計画書により、災害が起こり得ることを確認し、災害が起こった場合のその組織が常識的にも論理的にも明らかとなる。第2に、準備と計画書の存在によって、パニックに陥ることなく適切に判断ができ、蔵書の損失を少なくし、復旧経費を減らすことができる。第3に、計画書は考え方を明確にし、それを使う誰にでも明瞭でやさしい手順を示してくれる。」(*6)
それを実践するための災害対応グッズであり、被害時の対応を日頃から身につけておくための訓練道具であったりもします。これらの日常の備えを行なうことは、蔵書の保存と活用を将来に対して補償することにつながるものと思います。

4.冷凍資料の修復にむけて

ここで話を冷凍資料の修復作業に移したいと思います。解凍から乾燥、再製本に至る過程でも、一筋縄ではいかない様々な問題がありました。特に多くの作業時間を割いた和本の修復を中心に、修復作業に入るまでの検討の経過や実作業時にあがったポイントなども紹介したいと思います。

■冷凍資料の引き取り

冷凍された資料

袋詰めの冷凍資料

冷凍資料は7冊どころではなく50冊を超えていることが、國學院大學を訪問した8月31日になってわかりました。その多くはロッカーから救出された資料であり、想定を遥かに上回る量に、その日は持ち帰りをあきらめて、クール宅急便で凍結した状態のまま当社まで送って頂きました。
冷凍資料が当社に届いたのは9月4日でした。結局水濡れの被害にあった資料は53点ありました。資料は、夏場でも常時摂氏マイナス20℃以下を保つ、当社のストック型の冷凍庫で保管することになりました。
古山氏からの情報では、資料は「所有者の教授が古書店から購入したもの」であり「虫食いなどの損傷がないもの」ということでしたので、状態が良いということならばあまり本格的な修復作業をしないで、乾燥させる事をメインに考えて、繕いなどもほんの少しであると当初は想定していました。また資料の仕上がりについては、乾燥してめくれて読めるようになれば、過剰な修復作業は必要ないというイメージを古山氏から伝えられました。

■作業計画の方針の決定

作業依頼の主旨は、濡れて使えない資料を被害に遭う前と同様に活用できる状態、つまり「めくって読むことの出来る」ようにすることでした。まずは修復ありき、の作業計画ではありません。
作業としては、虫食いや欠損、本紙が弱っている部分なども、しっかりと補強するのではなく、安全に扱える程度のミニマムな繕いをする。極端な言い方をしますと、ページをめくることができるなら「弱い部分は弱いまま」にしておく程度にとどめておくということです。ところが「効果的で最小限の繕い」というのは、実のところとても難しいものなのです。損傷の異なるひとつひとつの損傷箇所に合わせた技法の選択と加減の落としどころに、修復技術者の経験と判断力が問われるからです。
最小限の繕いでありながら「以前と同様に、不都合なく活用することができる状態になった」ことで、所有者に満足感を覚えて頂けるような仕上がりを目標と考えました。
今回水濡れ被害に遭った資料は、文化財として分類するならば「歴史資料」に当てはまりますが、一点しか存在しないものではなく、所有者が研究に必要な資料なのであって文化財ではありません。文化財の修復を対象とした「保存・修復の原則」に縛られた修復設計を行なうことは、ややもすると修復側の自己満足になってしまうものです。修復設計を立てる際には、修復の基本である原形を尊重することを考慮に入れながら、幅を持たせるように注意しました。
ただし方針として、最低限以下の点を踏まえることにしました。
1、資料の原形はできる限り変更しない
2、保存手当・修復処置は必要最小限にとどめる
3、長期的に安定した、可逆性のある材料を用いる

表紙の折れ

修復前の損傷の状態。表紙の折れジワ、擦れ

傷んだ表紙と見返し

修復前の損傷の状態。表紙と見返しの傷み

■実際の作業方法の検討

決定した方針の下に、実際にどのような方法をとり作業を行なうべきなのか。今回の水濡れ資料については以下の項目に焦点を当てて検討することになりました。

  • 53冊は大量と捉えるか、少量と捉えるかによる乾燥方法の選択
  • 所有者からの希望となっている洗浄作業の計画

【乾燥方法の選択】
53点は、素材と形態から和本と洋本(洋製本された本)に分けると、和本が46冊、洋本が7冊という内容です。
まず洋本7冊について、空調の循環水は汚水ではない、という事前の情報を考慮に入れながら、洗浄を行なうか行なわないかを焦点として作業方法の検討がされました。
洋本は、活版印刷されたシリーズの初版本です。一冊の厚みは3センチ以上あり、また一冊当たりの枚数も500ページを超える事が予想されました。仮に上製本された資料を解体し、一枚一枚洗浄し、また再製本などすると、その費用は莫大なものとなり現実的ではありません。対し真空凍結乾燥法を選択すれば、洗浄せずに乾燥させるのみということで、コストも安く抑えられます。
所有者もコスト高を懸念されて、最悪の場合にはせめて奥付のコピーだけでも欲しいという希望でした。真空凍結乾燥法を行なえば、洗浄はできませんが、再びページをめくって見ることができるようになります。それならばきっと所有者もご納得頂けるものと考え、7点3,500枚に及ぶ洋書は真空凍結乾燥法を選択することになりました。
和本の総枚数は2,500枚と試算しました。一冊当たり平均すると60丁程度となります。これを大量と捉え、真空凍結乾燥法を選択するかが焦点となりました。和本は紐で綴じられているために、水濡れ状態でも解体は容易にできますし、濡れている状態で一枚ずつはがしながら洗浄することも可能なはずです。
和書のみ洗浄を行なうならば作業枚数は半分以下に減り、いったん乾かすことなく、濡れた状態のまま一枚一枚を洗浄し乾燥することは、量的にも作業の流れを工夫すれば十分可能なものと考えました。幸いにも、濡れた資料を取り扱うことは防衛庁市ヶ谷台資料(埋蔵資料の修復)での経験があり、ハンドリングと作業の上で発生する問題への対処法において、当社にはノウハウがありました。凍結吸水乾燥法をアレンジした方法で工夫を行なうことにしました。
付け加えるならば、真空凍結乾燥法を選択しない理由は以下のこともあげられます。

輪ジミの資料〔表紙〕

左右とも:輪ジミ。濡れているところと乾いているところがある。乾くとその境目からシミとなる。

輪ジミの資料〔本紙〕

・部分または全面への過去補修がある場合や、貼紙などが貼られている箇所においては、水濡れしたときに糊が水を含み、外れを起こした状態のまま乾燥するので、それらの部材は外れ、特に貼紙などは戻し位置がわからなくなったり、紛失してしまう恐れがあること。
・資料の中には全体が水濡れしておらず、濡れている部分と乾いている部分の境に輪ジミができているものがあり、見苦しい状態になってる。真空凍結乾燥法では、その輪ジミもそのまま残り、後に洗浄してもシミが落ちない可能性が高いこと。
このような検討の下で、凍結資料の乾燥方法は、洋書については真空凍結乾燥法を用い、和書については自然解凍から洗浄を経て乾燥を行なう方法を選択しました。

【洗浄作業の計画】
乾燥方法が決まりましたので、次に洗浄作業の検討に入りました。濡れから乾燥までの工程は一回のみとするための作業計画ですので、洗浄をどのタイミングで行なうかが焦点となります。繰り返しになりますが、空調の循環水は汚水ではありませんが、ロッカーから発見された資料には微生物によるカビやにおいなどが発生しており、洗浄は所有者からの希望で今回の作業内に加えられています。
ここでのポイントは2点となります。
・最初から濡れている資料に対する扱い
当社で行なっている修復作業は、さまざまな劣化損傷(虫食い、フケ、固着、欠損、酸性劣化など)を抱えてはいますが、普段は最初から「乾いている」資料を相手に行なっています。正直なところ、最初から「濡れている」資料に対する修復設計を作るのはイレギュラーな作業となります。そのため作業に入る際には、より慎重に仮説を立てながら試行をし、また修正しながら作業を進めることになります。
・乾燥させるまでのプロセスでの問題点
濡れているものを乾かしまた濡らすような繰り返しの作業は、さらに本紙の紙繊維を傷める事につながります。今回の作業では、一度乾かしたならば、二度と濡らすことのないような工夫をしたいと考えていました。既述しましたように、和書に対し真空凍結乾燥法を取らない大きな理由はその部分でした。
自然解凍から乾燥させるまでの流れの中で、資料の解体とウェットクリーニングの作業を組み込んで、ワンウェイで安全に行なうための作業計画を考えつきました。それは解体から洗浄、エタノールによる殺菌、本紙の順序の記録、開いた状態にして乾燥させるまでを一連の流れで行なうといったものでした。
しかも効率よく作業を行なうことが可能な方法なので、作業コストに反映させることができます。詳しくは後述することにします。

フローチャート_和本修復

和本の修復プロセス

フローチャート_洋本修復

洋本の修復プロセス

■作業コストの計算

以上のような検討を経まして、やっとのことで修復計画の試案が固まりました。
次に実作業に入った場合、まずはどの程度のコストがかかるのかを報告し、認めてもらう必要があります。被災資料の見積もりはとても難しいものがあります。例えば今回の資料のように凍結している状態では、本紙の状態どころか丁数すら分かりません。本体の厚みから推測し、枚数を出すことになります。
損傷の有無もわかりませんので、修復作業の必要の有無についても想像するより他にありません。それらは解凍して、解体を進めていって初めて確認できるものです。虫損による損傷があるかもしれません。大きく欠損しているかもしれません。このことも想定した見積もりを作成する必要があるのですが、その根拠となる情報は何であるかは、どうしても求められることになります。
今回、適正費用を算出するために、資料群の中で特に大きなカテゴリーの中から代表的な一冊を選びトライアルとして抽出し、それらの作業内容を参考に和書全体の見積もり金額を算出する必要を感じ、図書館の古山氏に相談しました。そこで代表的なものとして抽出した4点のプレ作業を行なうことをご了解頂きました。作業見積もりは、この作業の結果を下敷きにして作成する事になりました。

■修復作業から納品へ

実のところ、解体して分かったことは、状態が良いと言われていた資料は、虫損や小口の切れなどの損傷が意外に多いということでした。繕いはほんの少しという当初の目論見は崩れてしまいました。ミニマムな繕いということに変わりはありませんが、繕い箇所は大幅に増えたので、見積もりはそのことも踏まえながら作成をしました。4冊の資料は修復を終え、その納品に併せて提出した見積もりは理解を頂けました。そこで本格的に修復作業をとりかかりました。
プレ作業を行なう中で作業のシステムはすでに出来上がっていたので、和本の修復作業は、およそ一か月の作業期間という短期間で、効率よく作業を終える事ができました。仕上がった和本は、懸念されたにおいも、ほんのわずかに感じる程度となり、利用時に気にならないまでに軽減されていました。また水濡れ時にできた輪ジミも洗浄の効果で、そのほとんどが無くなりました。繕い方法も最小限のものでしたが、本紙全体に一体感が出てめくり易くなり、その仕上がり感は所有者の方にもご満足頂けるものとなりました。

冷凍した洋本

修復前。冷凍された状態の洋本

乾燥後の洋本

修復後。真空凍結乾燥後の洋本

真空凍結乾燥法を選択した洋本ですが、乾燥の仕上がりはとてもよいものでした。水濡れ時の膨らみを多少は感じますが、使用するにはほとんど気にならない程度に収まっています。乾燥を終えた資料を手に取り、眺めていると、この資料を解体し一枚ずつ洗浄し乾燥させ、また再製本するなどという手間に比べるならば、驚くべき簡易さと低コストで乾燥がなされてしまったことに感慨すら覚えました。この手法が、小さな問題を内包しつつも、やはり大量の水害資料に対して非常に有効であることに疑問の余地を挟むことはありません。
乾燥を終えた資料はドライクリーニングを行ない、カバーの繕いを簡易に施した後は、利用は不都合無くできる状態になりました。
今回の水濡れ時、洋本は一番早い段階で冷凍されました。そのことが良かったと思われますが、ロッカーで発見された他の資料とは違い、資料からのにおいはまったく感じられませんでした。このことからも早期の冷凍処理の有効性について再認識することができました。

5.作業中の発見や工夫について

先に述べたように作業方法の検討から見積もり作業、さらに実作業に向けて段取りを行なうことは容易なことではありません。しかし、大量修復の現場では、作業前の修復設計がきちんと作られ、起こりうる問題についてもある程度想定でき、その対処法も準備した上での流れを作ってしまえば、実際の作業はとても効率的に行なえ、あっけないほど早く安全に、大量の資料の修復作業を終えることができます。そのことはそのまま修復コストに反映されますので、依頼者に還元されることになります。やはり準備はしっかり行なうことが大事です。
作業を進めていく中で、気が付いたことや工夫を重ねた点で、いくつかのポイントとなったことを紹介します。

解凍途中の資料

解凍されたもの(左)と解凍前のもの(右)

資料の損傷

修復前の損傷の状態。折れ

解凍後の資料

解凍した資料。表表紙と見返し

修復後の資料

修復後の資料。表紙の赤の染料のシミが、空摺りの模様のまま、本紙を染めている

■水濡れ和本の取り扱いにくさ

水を吸った和本

水を吸った状態の和本

修復では水を使いますので、こちらも濡れた本紙を取り扱うことに慣れてはいますが、製本されたまま水に濡れた和本を扱うのは初めてでした。
自然解凍を終え、かなりぐっしょりと濡れた状態のまま、本紙を剥いでいく作業となりました。和紙は丈夫であるという認識を持っていましたが、本紙が重なっている状態で水にたっぷりぬれると、紙同士が水を介して接着しようとする力が強く働きます。そのような力に抗して、経年で弱っている和紙を一枚一枚剥いでいくのは、修復技術者のように紙の扱いに慣れた人ならば安全に扱うことができるでしょうが、不慣れな人には大変な難しい作業になるでしょう。本紙を切ったり破ったりして損傷させてしまう危険の中で、かなりストレスのかかる作業が長時間続くことが予想されます。
水害資料の救出法で、まずあげられるのが、水濡れした資料に対し吸水紙を挿入する方法なのですが、和本についてはまず一枚一枚剥いでいくことすら、紙の扱いに慣れていない人には難しそうです。ましてや虫損が甚だしい資料の場合には、もうほとんど不可能に近いかと思われます。今後、アドバイスを送る際には、和書に関しては安易に「本紙の間に吸水紙を挟んで…」などと言わないように気をつけようと思いました。

■洗浄から乾燥へ 作業上の工夫

洗浄方法はシンプルにぬるい温水を用いる方法としました。温水から引き揚げた後に、軽く水分を取った後にエタノールと水の混合液をスプレーで噴霧することで殺菌します。
洗浄を終えた資料は、輪を開いた状態にして乾燥させる必要があります。水を多く含んだ状態の本紙を開くことは大変危険で難しいですが、水気を取ってあげると取扱いが容易になり、開くことができるようになります。そのような一時的に吸水させる材料にも工夫をしました。2,500枚は決して少量ではないので、大量の枚数を効率的に一時的に吸水させるシステムが大事となります。汚れても洗うことで繰り返し再使用可能な吸水材を大量に用意し使用することで、解体、洗浄から、輪になっている本紙を水気を含んだまま広げてプレスしながら乾燥させるまでの作業を、安全に、なおかつスピーディーに行なうことが可能になりました。

洗浄風景

洗浄作業

洗浄後の乾燥

洗浄後の乾燥作業

■繕い方法の検討

繕いを作業工程内にどう組み込み、またどの技法を用いるかを検討しました。濡れている状態のままの本紙に対する繕い作業は無理があります。そこで乾燥を終えた後に、糊分も水分も最低限の使用にとどめながらも、被害に遭う前と同様に活用できる状態、つまり本紙をめくって見ることができるようにする方法を検討しました。
今回の作業方針に基づき採用したのが、微小点接着法という簡易な繕い方法です。応急処置的な仕上がりとはなりますが、この技法を用いれば本紙に与える濡れは最低限にとどめることが可能となります。微小点接着法の繕いとは、和紙にドット状に糊を付け繕う方法であり、本紙に与える水分の影響は微少なものとなると同時に、将来的に本格修復を行なう際には、補修材を除去し易い、簡易的な繕い方法です。表具師の出身で、現在は昭和女子大学人間文化学部歴史文化学科教授をされている増田勝彦氏によって提唱され、世界にも紹介されている技法です。(*7)なお今回の作業では、糊にはメチルセルロースと生麩糊の混合糊、繕い和紙には国産楮を原料とした修復用和紙を使用するなど、可逆性があり保存性の高い材料を用いています。
総じて表紙と見返しについては傷みが多くみられました。表紙は本体の保護機能を持つものなので、この部分においては本格的に修復を行ないました。

深い虫損

修復前の損傷の状態。虫損

繕い後

微小点接着法による繕い作業後

6.微生物の発生の理由-事故当時の気象について

被害が起きた場所や状況、資料の状態などの情報にプラスして考えなければならないのが気候です。それらをひっくるめた環境により、被災資料の運命が決められていくと言っても、決して過言ではないと思います。
データを眺めることにより、事故後初動48時間の大切さについて改めて認識することができました。(*8)
今回の水濡れが起きた2007年8月は東京で最高気温で37.5℃を記録しており、最高気温の月平均値でもこの10年でもっとも高いものでした。平均しても気温は29℃というのですから、かなり暑い夏であったことは間違いありません。


外気:八月の気温

2007年8月の気温(外気:東京) ※気象庁webより「東京」のデータを筆者がグラフ化

ではこの被害の起きた8月22日という日はどうだったかというと、この日は8月の最も暑い気候の最後の山にあたります。日中の外気の気温は35℃以上になり、夕方から23日未明までも25度を下回らない、いわゆる「熱帯夜」でした。加えて外気の湿度は夕刻から明け方まで70%を超えており、きっと寝苦しい夜であったと思います。天気は好天から一転夜半に雨が降りだし、翌日も雷を伴う雨が続き、午後から回復しています。夜半は気温が高い事に重ねて、雨が降っていることによって湿度が高いという外気の状況の下で、水浸しのまま空調もなく、高層のため窓も閉め切られたままで復旧を待っている状態の研究室内は、残念ながらデータはありませんが、かなりの高温高湿を保った状態で時間が経過していったものと思われます。
23日の日中は酷暑もいったん和らぎましたが、24日にかけて気温はまた上がり始めました。そのような環境下で、資料はあえなく微生物(カビや細菌)の活発な活動に、次第に犯されていったことが想像できます。
夏場と冬場、梅雨や秋の雨期など四季に富んだ日本の実情も考えに入れた上で、事故が起こった時の対処を取る必要があることを今回の事例は教えてくれます。


外気:8/22~24の温湿度

8月22日~24日の温湿度変化(外気:東京) ※気象庁webより「東京」のデータを筆者がグラフ化

外気:8/22~24の絶対湿度

8月22日~24日の絶対湿度の変化(外気:東京) ※気象庁webより「東京」のデータを筆者がグラフ化

参考までに…
湿度の値は温度の上がり下がりに相対して、その値が下がり上がりするものです。普段使用している湿度は「相対湿度[RelativeHumidity]」といい、人間の実感に即していると言われています。空気中の水分の量は変わらなくても、温度が上がれば湿度は下がり、温度が下がれば湿度は上がます。
実際に空気に含まれる水分の量を見るための湿度もあります。「絶対湿度[Absolute Humidity]」というものです。実際にどのくらいの水分が空気中にあるのかを教えてくれる湿度です。
外気のデータではありますが、8月22日から24日の絶対湿度を算出してみました。数値の変動を見ていくと、8月23日の日中はいったん数値が下がり、空気中の水分量が減っていることがわかります。しかし22日、24日を見ると数値は跳ね上がっており、空気中の水分量はともに17g/m3を上回っています。この数値は、カビにとって胞子を発芽させるのにとても適したものです。漏水により建材に水を多く含み空調も無く高温の状態の現場では、さらに空気に含まれる水分の量が多かったのではと考えられ、このような状況の下で、短期間でカビが発生したと思われます。

6.まとめ

事故発生時から修復作業を終えるまでの一連の流れを追いながら、水害が起こった時の対処法で大事なことは何かを考え、また実際の水濡れ資料の修復作業の内容を紹介しました。今回の資料は図書館所蔵ではなく、個人(教授)の所有本でしたが、その対応は図書館員の助けを得て行なわれたことであるので、広義に図書館での水濡れ対応と解釈してここまで話を進めてきました。
今回の事は私としましても、漏水被害は老朽化した古い建物だけでなく新しい建物でも起こり得ること、水濡れしてしまった和本は取り扱いがとても難しいこと、「48時間以内に凍結できた資料」と「48時間を超えて凍結した資料」とでは、決定的に大きな違いが出てくることを、修復の立場で身をもって経験し、その認識を新たにすることができました。これらの経験を皆さんと共有することが、規模の大小こそあれ今後に発生するかもしれないこのような被害を最小限に抑える上で、大事なことなのだと考えます。つまり将来の「保存と活用」を保証する上では、災害対策は日常の業務から切っても切り離せないものなのだ、という意識の共有です。このことは本に限らず、デジタルデータにも当てはまります。
今回の水濡れ事例で初動の資料の救出作業を通じて感じることは、「万が一」のことが起きた際には、やはり土壇場でその対応力が試されるものだということです。今回の初動からの対応は、けっして満点ではないのかもしれませんが、「対処がわからないから放置して、カビが生えて使用できなくなって廃棄した」などという最悪の状況から考えれば、よりベターな対応で、とても誇れるものであったと思います。
その「万が一」に備えて、何が最低限必要であるかを再度あげておきます。

  • なんでも相談できる専門家とのホットラインを確保しておく(確かな情報を得る窓口の確保)
  • 危険な状態のままで、対処を先延ばしにしない(初動の対処)
  • 緊急の際に必要な内外の設備や部署は、日ごろから確認しておく(日頃の準備)

以上のことさえ、とにかく準備しておけば、いざという時に、よりベストに近い対応が可能なのではないかと考えました。今回の事例が、皆さんの日頃の備えのための一助となれば幸いです。
なお今回の事例の発表につきましては、所有者様とその関係者、図書館の古山氏には寛大なご理解を頂き実現することができました。改めて感謝申し上げます。

修復後の資料並べて

右左とも修復後の資料

修復後の資料並べて

【参考文献】
*1 今津節夫「水濡れ文化財の救済を目的とした凍結乾燥」,文化財保存修復学会第19回大会講演要旨集,ポスターセッションp29(1997.6.7-8)
*2 増田勝彦「水害を受けた図書・文書の真空凍結乾燥 : 和紙を綴じた図書」『保存科学』31, p.1-8 (1992.3)
*3 Heritage Emergency National Task Force制作 (アメリカの国家的災害支援組織ネットワーク)
*4 第4回図書館総合展(2002年11月20日~22日)で紹介
*5 豊田裕昭「災害救急マニュアル『文化財防災ウィール』 : 図書館にもWheelを」『大学図書館問題研究会誌』29, p.37-47 (2005.12)
*6 Buchanan, Sally.(1988)『図書館, 文書館における災害対策』東京 : 日本図書館協会, 1998 (シリーズ本を残す ; 7) ,p.18
*7 ・“Micro-dot Adhering and Offset Pasting for Paper Conservation”,IIC Conference, Baltimore(1999.7)
・「微小点接着法による接着力と引き剥がし後の紙の損傷」,文化財保存修復学会第25回大会発表(2003.6.7-8)
・「微小点接着法の実際-ドットスタンプとペーストパッド-」,文化財保存修復学会第28回大会研究発表(2006.6.3-4)
*8 気象庁web,気象統計情報,過去の気象データ検索より東京を検索 http://www.data.jma.go.jp/obd/stats/etrn/index.php

■「現代の図書館 Vol.46 No.2 (通号 186) [2008.6]」に寄稿したテキストからウェブ閲覧用に制作しました。