コラム

記録遺産の継承を支える修復保存 ~紙資料クリニックの現場から~ 安田 智子

はじめに

修復というとボロボロの傷んだ資料がきれいに丈夫になるというイメージが強いと思います。もちろん焼け焦げた貴重書を甦えらせるという劇的なこともありましたが、日常的な修復現場ではいつも劇的なことばかりではありません。弱った資料を見るたびに、こうなる前に処置ができていたらと思うことも少なくありません。
本日は資料をできるだけ傷めず長く保存・活用するために大切な実践例を内外の事例を挙げながらご紹介します。実は本日のテーマ「記録遺産の継承を支える資料保存」には3つのキーワードがあります。アクションプラン、アンチエイジング、アピール、これら3つのAをキーワードにしてみなさんのお仕事に役立つ話ができればと思っています。

ライブラリアンを経てコンサバターへ

私自身の経歴に少し触れておきます。大阪の建築設計事務所の資料室でライブラリンとして5年間勤めました。新着図書や雑誌の登録管理を担当しながらレファレンス業務をしており、資料を活用させる環境にいました。その後、修復家を目指して大学に入り直し、卒業後オランダに留学してオランダ国立文化財研究所附属修復学校で紙や書籍、アーカイブの修復保存を専攻しました。在学中は学校での勉強の他、国立公文書館やロッテルダム市立海洋博物館などで研修をして、現場での経験を積むことができました。修復学校の授業で印象的だったのは、すでに職に就いている修復家やライブラリアンが受講していたことです。紙の劣化などの化学の授業で、3~6か月間で隔週午前中だけといった短いコースなので働いている人にも通いやすいようで、とても熱心に受講していました。日本でも、このような授業があれば、資料保存に携わるみなさんのような方々が後からでも比較的簡単に資料保存の知識を得ることができると思います。
帰国後は東京修復保存センター(以下、TRCC)に入社して様々な資料の修復や劣化調査、環境調査を行っています。TRCCは近現代の紙資料の修復が専門で、現在「修復」「劣化予防」「保護」「調査診断」の4つを柱にして修復保存の総合クリニックを目指しています。

修復クリニックの現場<修復・予防・保護>

TRCCはリーフキャスターをはじめとして、電動プレス、超音波エンキャプスレーター、スプレー式脱酸チャンバー、ボックスメイキングマシンなど大型の修復用機器を備え、トータルに修復保存を行う欧米型の修復アトリエです。「修復」「予防」「保護」の順に実際の主な作業を紹介します。
「修復」はいわば傷んだ資料の治療行為で、様々な技術で傷んだ資料の手当てをします。リーフキャスティング法は、大量資料の修復用に1950年代に東欧で開発された技術で、紙漉きの原理で虫喰い穴や破損など欠損部分のみに修復用繊維を漉き込み、糊を用いずに接合させて紙力を回復させます。粘着テープの除去は、やっかいな作業です。テープにはセロハンテープ、メンディングテープ、紙テープ、布テープなどがあり、支持体も粘着剤も様々で、除去に用いる溶剤も素材に応じて変えなければなりません。テープを貼るのは2、3秒ですが、はがして粘着物質を除去するのには2、3時間もかかることを覚えておいてください。しかも溶剤を用いたテープ除去は、本紙にも負担をかけますので決して望ましくありません。
「予防」のお話をする前に、みなさんはどのくらい酸性紙のことをご存知でしょうか?主に近現代の洋紙が酸性劣化してボロボロになってしまう“スローファイア”という問題ですが、日本でも1980年代に図書館界を中心に話題となりました。アメリカ、カナダ、オランダをはじめとする欧米諸国では1990年代から酸性紙の劣化の予防に国家的に取り組んでいます。
図は酸性紙の劣化のイメージです。保存科学者によると、酸性紙の中で起こるセルロースの分解はエンドレスなので、紙の中の酸を除く脱酸、および低温・低湿での保存によって劣化を遅らせるしかないとのことです。なお、紙が弱ってすでにボロボロになってから脱酸しても効果は少なく、まだ良好な状態のうちに予防として脱酸することが最も効果的です。TRCCでは現在ブックキーパー法というアメリカの非水性脱酸方式を採用して、スプレーを使用し一枚一枚処置しています。
「保護」として、大きな地図や図面、ポスター、原稿用紙などによく用いられるのがフィルムエンキャプスレーションです。ポリエステルフィルムに封入するため取り扱いがとても楽になり、物理的衝撃から保護することもできます。脱酸と組み合わせるとより効果的です。また、中性紙保存箱も資料の仕上がりに合わせてオーダーメイドで提供しています。
傷んだ資料には、修復+予防+保護を組み合わせた処置が施されますが、昨今ではデジタル化を伴うことが増えてきています。保存と活用のために、修復をミニマムにして資料の持つ情報をデジタル化して残し、安全に活用できるようにすることも修復センターの新たな役割の一つとなっています。
また、予防を意識した所有者の方も少しずつ増えてきており、まだ傷みが顕著に現れていない資料も脱酸の対象となっています。例えば、大正、昭和の漫画本のコレクターの方が、紙の酸性劣化を懸念されて脱酸の依頼に来られたことがあります。その方は、集めたコレクションを孫子の代まで長持ちさせたい、そのためには自分が劣化予防をしておきたい、とおっしゃいました。この漫画本は、彩色や製本が変化しない安全な方法(ブックキーパー法)で現在脱酸を行っています。

アクションプランのための<調査診断>

紫外線や温度・湿度の変化は資料に悪影響を及ぼしますし、今日の資料を取り巻く環境には悪い要因がたくさんあります。車などの排気ガスから出る窒素酸化物や硫黄酸化物といった空気汚染分子などがそれに当たります。これらは目に見えませんし、影響が劣化症状として現れてくるのは多分数十年後のことです。私たちはこれらを資料の「目に見えない敵」といっています。

1.資料の健康診断 “劣化調査”

資料の健康診断の目的は、客観的なデータを取ることです。対策を講じるためのはじめの一歩と思ってください。「なんとなく傷んでいるのが心配」ではなく、「何が、どの程度、どんな風に傷んでいるか」と把握することが大切だからです。紙が酸性紙かどうか、目に見えない「酸性度」を診断するためには簡単な方法としてpHチェックペンがありますし、正確に測定するにはデジタルpHメーターという器具があります。また、TRCCでは国会図書館の劣化調査と同じ基準で官能テスト(目で見たり手で触れた人間の感覚による劣化診断)を行い、記録カルテを残す診断をしています。日本では国会図書館や慶応大学図書館、早稲田大学図書館の調査が有名です。1890年代と1940~50年代の資料は劣化が顕著なため修復保存処置が必要で、私たちが実際に行った劣化調査の結果も同じ傾向でした。
各国の図書館では1980年代から蔵書の劣化調査を行い、蔵書の危機を最小化するために研究を始めました。1990年代後半からは、予防対策として本格的な脱酸性化処理を行っています。欧米の劣化調査の目的は、アクションプランを作成し予防対策を実践することです。米国のメリーランド大学図書館では資料保存方針と劣化調査に基づき、後世に伝える必要性の高い資料を優先して脱酸を行っています。また、オランダ王立図書館では、1850~1950年にオランダで出版された図書を対象に、脱酸とマイクロ化を組み合わせた保存計画を立て、実践しています。

2.保存環境を知る “書庫の環境調査モニター”

環境調査では「見えない敵」である紫外線や温度、湿度の変化を測定します。空調設定されている書庫でも過信しないでください。空調の設定はあくまでも目安と思って、実際に書庫内のいくつかの場所の温度と湿度を測定して場所による傾向やムラ、よどみがないかをモニターしておく必要があります。これには、毛髪温湿度計やデジタル表示の温湿度計を利用するのがもっとも簡便な方法ですし、データロガーという自動記録測定器を使えば採取データを瞬時にグラフにして視覚化できます。また、高価な紫外線強度計の代わりにブルースケール(JIS規格のものを使用してください)を用いて、紫外線の影響を視認することもできます。
その結果として、自館の保存環境が良好なのか、カビ、過乾燥といった湿度による問題がないかどうかをチェックでき、問題や原因が判明すれば、対策を講じることができます。ある図書館は、毎年梅雨の時期に書庫でカビが発生して、その都度清掃業者による拭取り作業を行っていました。拭取りには、毒性の高いチモールを使っていたため除去後しばらく書庫に入れないということもあり、担当者から根本的な原因究明をしたいという相談を受けました。TRCCで環境調査を行ったところ、空調機の不備で空気の流れにムラが生じていることが判明し、改善することができました。独立行政法人東京文化財研究所の保存科学室では、収蔵環境を最適に維持するためのIPM活動(Integrated Pest Management)を行っており、カビ被害防止チャートをホームページで公開していますのでぜひ参照してください。
日本では資料を中性紙保存箱に入れることがかなり広がってきたように思います。保存箱のメリットは資料を衝撃や光、急激な温湿度の変化といった外的要因から守ってくれることです。しかし、中性紙保存箱に酸性紙資料の酸性劣化の抑制力は期待できません。また、一度箱に入れると、そのまま入れっぱなしになってしまうことが多くみられるため、新聞などの酸性紙資料を入れた中性紙封筒自体が酸性化してしまった例もあります。このようにならないように資料を保存箱に入れる場合は、必ず資料についての情報を箱の表に記しておくことをお勧めします。

アンチエイジングのすすめ

アンチエイジングという言葉は、人間の老化防止や健康維持のキーワードとして最近よく耳にします。アンチ=抵抗、エイジング=老化で、今老化についての対策を講じて、美しく健康で暮らしましょうという積極的・能動的な意味が含まれています。私は最近、資料保存も同じことではないかと思っています。人間の健康に例えると、資料の劣化は人間の老化と同じで、早めに対策を講じて劣化を予防すれば、より良好な状態で資料を長く保存でき、かつ経済的なのです。病気や怪我は早期に直す。つまり「早期発見・早期予防・早期治療」=「診断、脱酸、修復」という考え方です。
現在の資料保存では「予防的保存(Preventive Conservation)」が主流になっています。わが国でもくん蒸にオゾン層を破壊する臭化メチルや発がん性のおそれのある酸化エチレンを使わないことになりました。先程お話したIPMがその好例です。IPMとは虫やカビが発生したら、その都度強い化学薬品で殺すといった対処法ではなく、発生を抑制するように環境を積極的にコントロールする方法です。私は、ヨーロッパ留学中に「なぜ先進国の日本がいまだにくん蒸や脱酸に危険な化学薬品を使うのか?我々は10年前から規制しているのに?信じられない」ということを何度か言われました。このように「Preventive Conservation」とは「資料に手を加えず何もしない」といった受動的なものではなく、「劣化を抑制する」積極的なアクションであり、アンチエイジングなのです。
米国議会図書館の保存科学室長シャハニ博士は、「紙の劣化の現実的予防法は低温、低湿、脱酸の3つ。我々は修復、保存箱、脱酸、マイクロ、デジタルといった資料保存に要するコスト比較の試算を行って常にコストバランスを考慮した対策を講じています。脱酸は効果的で経済的な手段であり、現在850万点の新旧の資料の脱酸事業にブックキーパー法を採用しています」と述べています。2002年にワシントンDCの議会図書館の収蔵庫を訪ねましたが、そこには背表紙に脱酸済みを示す小さな白い点がついた本が並んでいました。酸性劣化の予防対策としての脱酸はまさにアンチエイジングの実践で、問題を先送りしない姿勢を目の当たりにして驚きと共に感動しました。

コレクションの継承と資料保存

将来的にコレクションを保存して行くには、今だけでなく10年後、50年後、100年後の姿をイメージする必要があります。欧米のアーキビストやライブラリアンに共通するのは「我々は資料を預かっているだけ。目の前の資料は未来の次世代のためにもあり、今の価値基準で安易な判断をしてはいけない。簡単に廃棄してはいけない。いつでも誰でも利用できる状態でコレクションを残していくのが我々の役割」という使命感と長い目でコレクションの保存を捉えていることなのです。例えば、オランダ国立公文書館では、1冊の本を上下半分に切ったもの数十冊を、館内の空調及び空気清浄の完備した書庫とされていない書庫に別置しています。実験室での強制劣化試験だけなく実際の室内での経年による影響の差を調べるためです。もちろん結果が分かるのはずっと先のことです。
仕事でアジアの文書館、図書館を訪れる機会も多いのですが、大量の貴重な資料が傷んでいるという問題を抱えながらも、それらを継承するという誇りと意思を感じます。インドネシア国立公文書館では日本からの支援で連続式リーフキャスターを導入し大量にあるVOC文書(旧オランダ東インド会社文書)の修復を進めて注目を集めています。旧ロシアのアルメニア共和国では、止むおえない事情で祖国から離れ海外で成功した人たちによる支援が公文書館にもあり、同館のパンフレットには戦乱の最中に貴重書を守り抜いた人の話が紹介されていて、歴史資料がこの国の記録遺産としていかに大切にされているかがよくわかります。
資料を保存するのは容易ではありません。しかも近現代の資料は、伝統的な和紙や墨と違って工業的に作られた化学的な素材や添加物が用いられているため劣化が速い「現代の病」を抱えているといえますが、そのまま放置しておくわけにはいきません。

資料保存の必要性のアピール

今、目の前で手に取れる資料が日々劣化しているということを考える人は、私たち以外にあまりいないでしょう。先ほど述べたように、資料の保存は劣化の症状が目に見えてから対処しては遅いし、費用が高くつきます。しかし、現実の問題として、今傷んでいない資料の劣化予防にお金をかけるのは非常に難しいこともみなさんよくご存知だと思います。
解決方法は問題点をアピールし知ってもらうことです。蔵書調査や環境調査を行って問題を客観的・具体的に数字で表した資料を作成し提示することが必要です。デジタルカメラなどで撮影した映像を資料に添付することも効果的でしょう。私たちのような保存修復の専門家に相談するといった方法もあります。コレクションをただ持っていて、劣化を見過ごしていればスペースを喰う厄介モノになるだけですが、適切なメンテナンス(保存、修復処置)を行えば立派な「資源」となり、長く活用できます。
例えば、「資料保存」と言わずに、「経済的コレクション保存対策」と言い換えてみましょう。早期の予防対策は効果的に資料を長持ちさせ、修復保存に要するコストも抑えられ、結果として経済的であるということを理解してもらいましょう。また、一度であきらめず継続的に予算案化しましょう。書庫の改善に6年かかったというある担当者によると、ダメと思いつつ毎年予算案に計上していたら6年目に通ったということです。
アメリカでは大学図書館がコンソシアム(ある目的を達成するため複数の組織が形成するグループ)を結成し、共同で脱酸サービスの提供を受けるといった試みもあるそうです。地域の有名人に呼びかけ、その地域の企業からスポンサーを募り、歴史資料の保存に関する様々なイベントを行って、広く資料保存への関心を引くなどといったことも考えられます。
これまで記録遺産としての地域の歴史資料を継承していくための保存マインド実践の3A(アクションプラン、アンチエイジング、アピール)についてお話してきましたが、皆さんが何かやってみようかなと思えることがあったら幸いです。

■〔千葉県史料保存活用連絡協議会 平成17年度第3回研修会-要旨〕 千葉史協だより(第23号 2006.3.31) に寄稿したテキストからウェブ閲覧用に制作しました。